私は今懐かしくて新しい!みたいになっている90年代のど真ん中を学生として過ごした昭和生まれのレトロ人間なのですが、リバイバルブームにおいて、不思議な現象を観測しています。
例えば原宿ロリータと渋谷ギャルが仲良い光景。(イラストとかで)
例えばルーズソックス女子高生がキラキラした描写。
私の鬱々としたフィルターを通して見ていた光景では、なぜか渋谷と原宿は仲が悪く(どちらも渋谷なのに)女子高生なんてみんな援助交際してるみたいなメディアの描かれ方で、なんか泣いているイメージが強かったです。(あゆとかよく泣いてたよね?)
でも今の若い世代の子が私の嫌いな90年代をすごくキラキラと再表現してくれて、私の悲しい気持ちまで塗り替えてくれている様で、実はこっそりとても救われていたります。ありがとう若い世代、本当に。
そしてふと思うのが、私は90年代の時、全く流行りに乗れていなかったし、流行っているものにも興味がなかった事を思い出しました。
大流行してたのが「ケータイ小説」
今で言うKindleなんてなかった時代、現役高校生とかが書いたリアル生活の小説をオンラインに掲載していて、人気が出たものが書籍化したりドラマ化したりしていました。
ですが懐古趣味だった私は寺山修司や宮沢賢治や長野まゆみや羊たちの沈黙とかが好きだったし、ハイビスカスよりバラが好きだったし、SMAPよりマリスミゼルが好きと言う状況でした。
私がなんか暗いというのは置いておいて、そういう「流行りに乗らない子供」って言うのは、いつの時代も一定数いるのではないかと思うのです。
昨今、映像が短く編集されたりしていますが、映画をゆっくり見ないと理解できない子は絶対にいるし、長いYouTubeばっかり好んで見る子は絶対にいるし、短い文章より長く複雑な小説に感情移入する子も絶対居るはずなんです。
「最近の若い子は短くて分かりやすいものが好き」なんて、全員がそうだなんて私は思えないし、そうやって取りこぼされた「難解なものが好き」「長い時間浸れるものが好き」という子を置いてけぼりにする方がよっぽど悲しい事に思えるのです。
だから大人が、自分が若い頃どんなだったか忘れて「メディアで聞いた」みたいなあやふやな情報に迎合して、自分の感性と向き合わないでいるのを見るのは少し悲しいと思います。
別件ですが、物語作品の「台詞の量」について。
これは日本の漫画の「癖」ですが、漫画は整理された無駄のないセリフがいいとされています。
それはコマ割りと吹き出しとスピード巻のバランスをみて長年培われた「簡潔にする」技術だと思います。
この侘び寂び俳句的文化が日本の色々な映像作品、ストーリーに満遍なく反映されているように思います。(もちろん例外あり)
この感覚で海外の最近のカートゥーンアニメを見ると、セリフの多さに驚きます。
おそらく日本より動きの少ないカートゥーン的アニメーションの間を持たせる為に、日本とは逆にセリフがどんどん詰め込まれていったのだと思います。
そのせいで社会風刺もあるし、流行りの映画のネタも入るし、1人語りも膨大で、果たしてこのカートゥーンの視聴者層に意味伝わってるのか?!という難しい話題や単語が沢山出てきます。
でもその主張と主張の細やかなぶつかり合い、絡み合いが面白かったりします。
海外の実写ドラマでもガンガンガンガン喋って主張する。
ありきたりな表現をすると、無駄って面白い、と思うのです。
その無駄なセリフの端々で、その人物の立場や、考え方や好みなどの輪郭が見えてくる。
それが唯一無二のキャラクターになっていく。
テンプレセリフしかないと、例えば「委員長キャラだな」「妹キャラだな」としか感じられない。
(かぐや様は脳内ですごい喋るな。だから可愛いくてかっこいいキャラに感じるんだと思う)
脱線しましたが。
シンプルにしてかっこつける、とか、大事に作ったものをわざわざ短く再編集する、とか、無理にしなくて良いのではないか。
色々なところで言われるほど、別に気にしなくて良いんじゃないのかな。というお話でした。