メイル・ゲイズ/フィメール・ゲイズ
男性が描いた感じがする絵とか、女性が描いたっぽい絵とか、自分が好きな絵を言語化した時に、どうもしっくり来なくて……そんな事をもやもやと考えながら、先日美術系の記事を読んで学んだんだけど。
メイル・ゲイズ(男性/とりわけ異性愛的な/目線の表現)/フィメール・ゲイズ(女性目線の表現/性指向に言及しないっぽい)という概念があり、どうやら私はフィメールゲイズ的な表現が好きなのかもしれない、と気づいた。
ーーーーーーー
その読んだ記事
「見るなのタブー。それでも私はあなたに見られることを欲望する:映画『燃ゆる女の肖像』レビュー」
「【プライド月間】クィア・アートをめぐる5つのキーワード:フェミニズムの視点から」
ーーーーーーー
女性を見た時に、おそらく私は服にまず目が行くのですが、身体とは独立した相手を理解出来そうな要素なんだと思います。
これがメイズゲイズ(男性目線)的な映画や写真だと、顔に行って唇にいって、脚とか映してってなるんだと思う。
私は絵の中の女性を見る時も、多分最初に色と服を理解しに行くと思う。それから吊り目なんだ、とかリップはオレンジか、みたいになると思う。
ルノワールでも、アニメ的なイラストでもそう。
だから服や色が可愛くない絵は、どんなにリアルだろうと顔が可愛かろうと余り興味がもてない。
こうすると、私が何故か好きな絵、何故か興味が持てない絵の訳が少し見えてくる気がします。
そこで、ふと自分が好きなものを振り返ると、私が好きなビンテージのカードや絵本も完全にフィメールゲイズ的な表現だと思う。
それが男性作家でも女性作家でも、赤ちゃんや小動物を見る眼差しがそのままイラストになっている。共感と大切なものとして描かれている。
アメリカ文化にすごい詳しいとは言えないですが、このベイビーライクなイラスト群は一部の数人の作家以外は殆ど無名だったりするのです。
何故無名と断言できるかというと、そもそもアーティスト名が描いていないカード、絵本が多数存在するから。(出版社名とか書いてある)
この時代、アメリカでイラストの地位が低かったかというとそうではなく、例えばノーマンロックウェル、ライエンデッカーとかが多くの有名雑誌の表紙を飾る、アメリカンイラスト黄金時代でもあったのです。
(まあライエンデッカーはすごく同性愛的な眼差しではあるけれど)当時アメリカで権威があったのはすごくメイルゲイズ的なイラストばかりなのではないかと、兼ねてからこの可能性はじわじわ感じているのですが。
無名の無数のフィメールゲイズな作品が取るに足らないと思われていたのは、イラストの「外の世界」の影響が無かったとは言い切れないのではないでしょうか。
そう思うと、私がどうにも好きになれない、可愛いキャラクターに血を吐かせるとかそう言ったアート表現が(例えばミッキーとか、ピカチュウとか、セーラームーンとか)共感から程遠い、支配的な、嘲笑的な、メイルゲイズに根差した表現だったから、かもしれない。と思えてきました。
共感意識を表現した吐血とか、小動物と自分を同一視した流血表現とかは(日本人アーティストのアルタスープとかマークライデンとか)はむしろ好きな部類なので、この「似てるけど、明確に好き嫌いが分かれる」理由に納得のいく説明、理由の1つが、「眼差し(メイルゲイズ、フィメールゲイズ)」だったのかもしれません。