New Jeans新曲「Ditto」のMVを考察しました。
※これは考察であり公式の正解ではありません。
他人の考察を見る事で自分の気持ちでMVを楽しめなくなる方は読まない方がいいかも。
※人の生死を連想する事が書いてあります。
私の長かった1日
私は会いたい
New Jeans新曲「Ditto」のMV、side A,side B見ましたでしょうか?
懐かしく、美しく、どこか不穏なMV。
このMVについて自分なりの考察をしましたのでまとめさせていただきます。
結論
はじめに私が考える考察の結論からお話しします。
理由は次に書いて行きます。
心がNGを出したら理由は読まないで大丈夫。
「考察1」
主人公は New Jeans演じる「亡くなった親友達」の生前の録画ビデオを、録画した同じ場所、時間で「ビデオカメラでビデオを再生して見ている」のではないか。
つまり、見えない友達(イマジナリーフレンド)をカメラ越しに妄想しているのではなく、数日前までは生きていた親友が忘れられず、何度も何度も録画を再生して思い出に浸っているのではないか。
「考察2」
主人公は New Jeans演じる「アイドルになった親友達」の録画ビデオを、録画した同じ場所、時間で「ビデオカメラでビデオを再生して見ている」のではないか。
つまり、見えない友達(イマジナリーフレンド)をカメラ越しに妄想しているのではなく、数日前までは一緒に過ごして居た親友が忘れられず、何度も何度も録画を再生して思い出に浸っているのではないか。
本当は自分もアイドルとして一緒にオーディションを受けたかったが、腕の怪我で「カメラ係」をしている時に、運悪く他のメンバーはデビューしてしまった。
この考察のキモは「一見、録画しているように見える行動が、本当は手でビデオカメラを持ってテープを再生している」のでは、という点です。
考察2の方がまだ希望がありますが、私は考察1の方が全体の悲壮感のある雰囲気に合っていると思っています。
テープの再生の証拠にどこにも赤い「●REC」マークが表示されて無いです。多分。
そもそもNew Jeansすごくない??
とりあえず最初に言いたいのは、New Jeans演技がうますぎでは?問題。
そもそもNew Jeans(今後NJに略します)の名前の由来は
『大衆音楽は服と同じく、日常生活に至近距離で寄り添う文化であり、特にジーンズは時代を問わずに老若男女に愛されてきたファッションアイテムである。NewJeansにはそんな毎日つい手に取ってしまう、いつ穿いても飽きないジーンズのような時代のアイコンになるという抱負が込められている』
要約すると「長く愛されるように」ってところかと思うのですが、群雄割拠のK-POPにおいて彼女達が年齢を重ねても卒業や人気低迷で新曲が出せない、なんて事がないように結成当時から長い目で活躍するようにデザインされたグループだと思って居ます。
K-POPと同時に俳優業ができれば、かなり安泰なのでその辺も考慮に入れレッスンをしているのではと調べても居ないのに勝手に思って居たり。
(年齢での括り、卒業の概念は年々無くなってきている)
随所にK-POPという文化へのカウンターや、新解釈が散りばめられて「消費される少女のイメージ」をことごとく打ち壊して行こうというミン・ヒジン(彼女達のプロデューサー)の強い意志を感じる。
そしてY2Kがち世代としてはSPEEDを思い出さずにはいられない。
考察に至った理由
このDittoの解釈で一般的なのは「ひとりぼっちでもNJを聞いている間はあなたは一人じゃないよ」という「アイドル像」を映像化した、というものかと思います。
私はそれも一つの(しかもかなり正しい)解釈だと考えて居ます。
しかしそれは表向きの表現だとも感じて居ます。
恐らく意味が何重にもなっている(色々な解釈ができるように敢えて撮っている)
その方が盛り上がるから。
全体の
・不穏な要素が散りばめられすぎている。
・ホラーテイストが強い。
は避けては通れない要素だとは思います。
一つ一つ読み解いていきます。(何度も書きますが私個人の解釈です)
「主人公とNJ」の関係
まず「主人公とNJ」の関係。
考察1で話を進めていきます。
今で言うtiktokに載せるダンスを一緒に撮るような友達関係だったのかも。
もしかしたらアイドルオーディションに送るためのビデオを撮っているのかも。
(日本でもモーニング娘。ビデオオーディションとかあったよね?)
そしてNJ(親友たち)は主人公の恋の相談にも乗ってくれていたのかもしれません。
男の子も少し気になっていた様子。
そしてその親友達は何らかの理由で目の前から突然居なくなってしまった。
塗ってもらったマニキュアだってまだ残っているのに。
本当についさっきまでそこに居た親友達。
もしかしたら一緒に事故に巻き込まれたかもしれない。
自分は骨折だけで済んだのに。
ここで自分の考察1の矛盾を敢えて自ら指摘すると、
過去に映像を撮っている時もギプスをはめている点。
NJの居なくなった理由で骨折をしたのなら、過去の回想でギプスをしているのは時系列的におかしいのですが、骨折はもっと前からかもしれないし、過去ギプスをして居ない状態を示したら考察が限定されすぎるから(事故を連想しすぎる)敢えて混乱させるためかもしれない。
ギプスへの落書きは主人公の妄想かもしれません。
ギプスには「死なないで」って書いてあるらしい。
でもそれ以外はほとんど現実かもしれない。
雨をみんなと一緒に眺めたこともあるし、一緒に一つのソファで寝たこともある。
今は一緒に出来ないけど。
余談ですが、妄想と現実を混ぜるのはホラー作品ではよくある手法。
そうやって主人公は思い出の場所(学校のいたるところ)を一人で巡っているのではないでしょうか。
NJ(亡くした親友たち)が居なくなってしまってから、好きだった男の子を見つめるのも辛くなってしまいます。
だって「自分だけ幸せになっていいのか。」と思ってしまう事はしょうがないと思うし。
黒板に描かれた半分下だけ消された人物の絵。
大切な人を失ったときに「半身が無くなったような」という表現をする事があると思います。
その直接的な表現ではないでしょうか。
Dittoの意味の考察。現代とY2Kの交差点。
Dittoという英単語を私は知りませんでした。
調べてみた意味は:同じ、複製、繰り返し、重ねる。
これは繰り返しビデオテープを再生することや、私たちは同じだ、歴史は繰り返す、という意味もありそうです。
side A,side Bはレコードやカセットテープの裏表を表す言葉でもあります。
若い子にはピンとこないと思いますが、カセットテープには表裏をひっくり返すと別の音が録音できるようになっています。
セロハンテープの粘着面とツルツル面の両方に録音機能がついているようなイメージ、で伝わりますでしょうか。
こういうトランプの表裏、世界の表裏をファンタジー作品では「フリップサイド:Flip Side」という事があります。逆から見たら、的な意味もあります。
ストレンジャーシングスの裏側の世界(The Upside Down)と近い表現です。
また「猫」がサスペンス、ホラー、SF、などの映画に不意に出てきた時、「シュレディンガーの猫」を暗示している事が良くあります。
簡単に言うと「あったかもしれない別の未来(過去)」「別の世界線」の暗示であったりします。
これもいわばA面B面です。
ここでは私は「Y2K(2000年代」と「現代」の感情の共通点を指していると考えました。
例えば大切な親友を失った時、生前のインスタグラムやtiktokを眺めてしまうのでは無いでしょうか。
周りや世界が忘れて行って、滞りなく回っていても、そのアカウントを繰り返しなぞってしまう。
失くしたのは人かもしれないし、動物かもしれないし、場所だったり、何かメディアのような曖昧なものかもしれないですが。
この感傷は時代を経ても、若くても、大人でも、大きな違いはないと思うのです。
「最近の若い子は」そんな言葉を聞くたびに、私には何がそんなに違うのかわからない時が度々あります。表現方法やツールや生息地帯や取り巻く状況が違うだけで本質的な感情面はさして変わらないのかもしれません。
もしかして若い子から見たY2Kはコロナで学校行事どころか居たはずの「友人達との思い出」ごとごっそり無くなってしまった世代の、「楽しそうな架空の学校生活」なのかもしれません。
そこまで踏まえてNJのDittoを見ると、「存在したはずの青春時代」であり、コロナがなければ…と思わずにはいられない世代の、存在したかもしれない「B面の世界」(コロナが起きなかった世界線)の架空の思い出とも言えるのではないでしょうか。
最後に、NJに幽霊みたいな役を演じさせるのはそもそも縁起が悪いのでは?という問題もちょっと触れておきます。
それすら「まさかそんな」という印象でのミスリードなのかもしれません。
NJ自体がK-POPへの大きなカウンターになっています。
ナチュラルなメイクで、過度に作り込まず、曲調もすごくシンプルでインディーズ(ビリーアイリッシュ的な意味で)っぽい。
私はK-POPの世界はバレエやシルクドソレイユのような、限られた表現範囲で競い合う事に重点をおいた世界だとずっと認識していました。
そのある意味での「伝統」を打ち壊し、K-POPの幅を広げ、若い女の子にはそれだけじゃなくってこんな事だってできる!という可能性を広げていく、そんなグループがNew Jeansだと、私は感じています。